自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
当ブログにご訪問頂き、ありがとうございます。

このブログでは演奏会(ライブやコンサート)参加の履歴や
日常生活で思ったことについて、様々な視点で書いていきます。

どうぞよろしくお願いいたします。


2017年6月17日土曜日

ソニーのプロから聞いたスピーカのバリの直し方

「バランスを左にして千回ボリュームを回し、右にして千回、とにかく回す」

または、

「接触油みたいなのをスプレーに入れたもので、
ボリュームのつまみを無理やりのけて、軸の隙間から吹き込む」

一応そのスプレーも買いましたが、つまみを引っこ抜くのがこわくてできません。


私のブラボーを賞賛・賛同する自称42歳の女性が現れた。

私のブラボーを賞賛・賛同する自称42歳の女性が現れた。
「横に座ってコンサートを聴いてみたい」という。

5月6日(土)18時からの
サンポート第1小ホールの「ハン・ヨンジン フルートリサイタル」に
本当についてきて私の横に座りました。

例によって、
私はイタリア語+作曲者関連の言語と韓国語でブラーボを出したのですが、
「さっきの、演奏者の国の言葉ですか?声がけに反応してましたよ!」
と、喜んでいました。

奇しくも、5月11日に父が亡くなり、
13日の葬儀で受付が急遽必要になり、イチかバチかで頼んだら、
「13時から14時の葬儀の時間だけだったら何とかなる」
というので、これもお願いした次第です。

その人が、
「阿波踊りを見に行きたい」
と言ったので、研究所メンバーともども一緒に行くことになりそうです。
 
まあ、ブラーボに賛同するくらいだから、
阿波踊りの熱狂にも浸りたいという感覚なのでしょう。

2017年6月15日木曜日

チャイコフスキーぶち壊しの楽章間の拍手

平成29年6月11日(日)14時からの
香川県県民ホールでの高松交響楽団演奏会。

出ました!

全曲チャイコフスキープログラムの前半、
ヴァイオリン協奏曲では1楽章と2楽章の間で、
後半交響曲第6番『悲愴』」では3楽章と4楽章の間で、
客席からシラケ虫が飛んで出るような、楽章間の拍手。


これをやられると、本当に楽想がぶち壊しになる。
曲の連続性も途切れる。

曲の途中で喉飴の袋をいじくって騒音を立てる「ガサガサおばさん」こそ、
こういう楽章の間でやり、又は精出して咳、咳払いをやればいい。

そういう時間なのに。

5千円を超えるコンサートでは、ある程度の経験を積み、
礼儀を知ったマニアが来るからこういうことはないのだが、
低価格になればなるほどド素人の数が増えて、

プロモーターが注意を喚起する紙切れを
プログラムに入れるなどしないと、まず起きる。


筆者の左に座っていた音楽を志す女生徒も、
残念ながら会場の雰囲気に呑まれてVコンのときはやってしまった。


ド素人が楽章間の拍手を正しいと誤認するほどコワいものはない。

ほとんど、悪性のウィルスに感染したようなものだ。

こういうやつに限って、クラシックコンサートはありがたい崇高なもの
との前提のもと、次の会場でもやる。

ここで感染した別のド素人が、別の場でまたやる。

悪の連鎖だ。

どこかで、『 それは間違っている 』
という認識をさせるワクチンを投与しておかないと、
悲惨なことになる。



某大学の某助教授など、
あちこちのサイトで筆者のブラーボはさんざんにこき下ろすも、
こういう、ほとんど社会問題に近い音楽学の問題については、
何ら的確な提言をなすこともなく逃避していた。

とばっちりと反作用がこわかったと見える。
学者の使命と良心を忘れたか、●●よ。


それに比べれば11日の演奏会にいた、もう1人のブラボー屋。

最近あの声はときどき耳にするが、なかなかに気骨のあるやつで、
タイミングも、特に6番の最後などフライングすることもなく、実に適切だった。

できの悪い学者の小理屈よりもはるかに実践的で好感が持てる。

ブラボー屋は本来孤独な職業だが、この場を借りてエールを送っておこう。


普通は、前半で無知蒙昧な聴衆の楽章間拍手に釣られて拍手したド素人でも、
曲が終わってから2人もが豪快にブラーボをやれば、

『 あの拍手は間違っていたんだ、曲の最後じゃなかったんだ 』

と気がついて、後半の曲では最後まで拍手が出ないものなのだが、
最近の香川のコンサートは、今回も含め、とみにこれが出るようになった。

落ちたものよのう。



その原因の最たるものは、ホールの指定管理者制度だ。


自治体直営の頃は、一応まともな地元愛意識を持った公務員が
ホール運営に従事すれば、

おらがホールを「あのホールは客の質が悪い、レベルが低い」と言われるのが恥
という意識があった。

そのための、注意喚起チラシを入れるとか放送をするとかの手を打っていた。

ブラーボがうるさいとのたまう客については、
歌舞伎の「音羽屋!」「成駒屋!」の掛け声と一緒で、あれは礼儀なんですよ、
と噛んで含めるように説明していた。


ところが、指定管理者になると、
聴衆に「うるさい」と文句が出やすいブラボー(屋)は悪人にするが、

楽章の間に拍手をするやつ、
曲の最後に休止符が付いていることの意義が理解できず、
曲の終わりと同時にいきなり拍手する輩については、

せっかくお喜びになっているんだから(!?)、と野放しにする。


要するに事なかれ主義の、もう、文化の破壊者だ。

その認識はあるのか?指定管理者よ。



2017年6月13日火曜日

慙愧に堪えない6月11日髙響 + 来る3月の高松ピアノコンクール

ブラボー屋はいいが、ブラボーおじさんと軽々しく呼称されたくない
芸術関係論文発表時の近藤昌紀である。


高松国際ピアノコンクールの事務局は
今年の直木賞・本屋大賞を総なめにした大作「蜂蜜と遠雷」を
(綿密に)お読みになったであろうか?



浜松ピアノコンクールに長期取材し、同コンクール丸出しのこの小説、
一次審査の段階から「歓声」「怒号」「スタンディング・オベイション」の連続である。


また、バレリーナで日本芸術院賞、文化功労者(ということは、実質人間国宝)
であらせられる森下洋子さんは、平成7年12月28日の四国新聞紙上で、

「拍手の中でかかる「ブラボー」は一般のお客様の感動のあらわれで、
どんどん掛けていただきたいものです。
見巧者の「ブラボー」は、踊りを一層エキサイティングにしてくれる演技の一種で、
芸術的ですらあります。」

と述べられておられる。


筆者のブラボーが「芸術的」とは言わないが
何か問題になる点があれば、どの点がそうであったのか、
具体的にご指摘いただきたい。


結局、事なかれ主義で、聴衆の感情の発露を殺してまでも、
粛々と事を進めたい高松コンクール事務局の思惑は、
地方ピアノコンクールの雄、浜松コンクール、それに次ぐ仙台コンクールに著しく見劣りする、
ギクシャクしたコンクールに内容を貶めてしまった。

このコンクールの発起人、亡ドコモ四国中澤正良社長の天上での慟哭が聞こえてくるようだ。




6月11日の高響演奏会。
チャイコフスキーのVコン、6番「悲愴」でも出た、楽章の間の拍手。


楽章の間に拍手する(ということは、実質的に曲想をぶち壊す)ド素人や、
曲の最後にある休止符の意味を理解しない、
「いきなりブラボー屋」対策の紙切れの一枚もプログラムに挟まない
田舎プロモーターの鈍感さよ。


こういう間違いを何ともなしに覚えたド素人聴衆は、これを当り前のことと誤認して、
次の演奏会でも楽章間の拍手を繰り返し、曲想ぶち壊しウィルスを拡大感染させる。


もっと言わせてもらうなら、
演奏中にのど飴の袋をいじって騒音を立てる「ガサガサおばさん」、
高松ピアノコンクールの最終選考か優勝者演奏でいた、口笛か指笛を吹く者。


あれはクラシック音楽の世界ではブーイングと同等に考えられていることを
知らない輩と思われるが、このへんはどうにかならないものか、プロモーターよ。



筆者、確かにブラボー屋としては異色だ。

相手の国籍、学んだ国、演奏曲目等により、
英・独・露・中・仏・西・韓・伊・アラビア語・ハンガリー語等
十数か国語を使い分ける。




これは国際交流としては多大な効果があり、結果として筆者に答礼する者、
アンコールの曲数を増やした奏者など、その効用は枚挙にいとまがない。

現在のような指定管理者でなく、
県直営であった頃の県民ホールはこの重要性を認識していた。






直営であったころは、正統派ブラボー屋を、正邪の分からない客に、
あれは 「礼儀なんだ」 と噛んで含めるように説明していたのに、

指定管理者になると、これも事なかれ主義に押し流され、
そのようなことをすると客が嫌悪して来なくなると、悪人に仕立て上げる



ただ、聞き分けられない言語は、確かに素人には騒音にしか聞こえない。
筆者のレベルになると、そういう悲しい宿命を背負っているのだ。


筆者がどのレベルの演奏会に行ってブラーボを出しているかは、
当ブログ中、「鑑賞履歴」をご覧いただきたい。






因みに筆者、
海外ではコベントガーデン、パリオペラ座(バスチーユに移る前)、
バイアン(バイエルン)、ウィーン、バイロイト、ブダペストの
各オペラハウスを制している。


ワールドスタンダードレベルで
ものが考えられることをおことわりしておく。