自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
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2017年11月17日金曜日

バイロイト音楽祭『指揮者にとっての伏魔殿-バイロイト』

本稿を書くにあったてグーグルを検索していたら、
本サイト鑑賞履歴・今年11月4日の主役、
アンドリス・ネルソンスが昨年のバイロイト音楽祭での
舞台神聖祝典劇パルジファルの指揮を放棄したことが載っていて仰天した。

かつては、全国・関東ネタは日経、関西ネタは朝日、
ローカルは四国と、3紙をびっしり読んでいた筆者だが、
ここ数年、寄る年波には勝てず、目が弱って、四国1紙すら読みかねている。

かつての筆者なら、
こんなことはリアルタイムで知っていただろうが、情けない。

で、本論に戻るが、開設後140年を越えるバイロイト音楽祭は、
いまだに絶対的権威を誇っており、他に比肩するものがあるとすれば
ザルツブルク音楽祭かというところだが、
指揮、演出、オケ、歌手それぞれが話題を醸し出すという点では
バイロイトが半馬身の差で先頭を突っ走っている。

中でも誰がどの作品を、
特に誰がその年の指輪4部作を振るかは新聞の文化欄の必須ネタであろう。

バイロイトを振った指揮者は、それこそ指揮者列伝として名を連ねることになり、
その名を見れば、その時代のトップ指揮者が誰か分かるくらいだが
そのすべてが円満に指揮台に立ったわけではない
バイロイトは指揮者にとっての『 伏魔殿 』と言われるゆえんだ。

しばらくは、悲喜こもごものバイロイト指揮者群像を回想しよう。

バイロイトは、
劇場構造が非常に特殊-オケピットが舞台の真下にある-ため、
物理的な構造が体質に合わない指揮者が出てくる。

舞台の上の歌手や合唱の発する音声と、
舞台下から発するオケの音にズレが出たりするから、
合唱指揮者のサポートが必須。

このズレが気に食わず、
1回でバイロイトの指揮台を降りたのがゲオルグ・ショルティー

↓ 1983年 バイロイト音楽祭、ゲオルグ・ショルティー指揮のニーベルングの指環





















かの帝王ヘルべルト・フォン・カラヤン
1951年・52年の2回でサヨナラ組だが、その理由たるや、
こちらはまずバイロイトのオーケストラの特殊性からスタートしなければならない。


欧州の歌劇場は夜の長い9月から翌年6月あたりまでがシーズンで、
バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭の開催される7~8月は
歌劇場の夏季休暇シーズンと重なる。

従って、バイロイトの舞台に参集するのは、
貴重な夏季休暇をつぶしてでもヴァーグナーをやりたいという、
世界中の筋金入りヴァーグナー愛好演奏家ということになる。

それがゆえに、バイロイトほどになると、
親子2代でオケピットに入る楽団員も少なくない。

連合国のヒトラーへの怨念が和らぎ、
戦後ようやくバイロイト再開となった1951年となると、

楽団員の中には父親が
”ヴァーグナーご本尊の指揮の下に演奏した”という猛者もいて、
「親父はヴァーグナーからこうやれと言われたんだ」と、
当時は若造であったカラヤンの指示に耳を貸さない者もいたというから、
プライドの高いカラヤンなど、さぞややりにくかっただろう。


自らバイロイトを去ったというのならまあ恰好もつくが、
ヴァーグナーの孫にしてバイロイトの総裁であった
ヴォルフガング・ヴァーグナーから放逐されたのは、ガリー・ベルティーニ

この人、出自はユダヤ人で、
得意のマーラー(この人もユダヤ人)を武器に、
ケルン放送響を世界トップクラスのオケに引き上げた功績がある。

県民ホールにも平成2年2月9日に来演し、
マーラーの9番を堪能させてくれただけに、
(ビオラの四方恭子、オーボエの宮本文昭もこのときのメンバー)
このニュースを聞いたときはショックだった。


(あの小澤征爾を出し抜いて)
日本人というより東洋人で初のバイロイト指揮の栄誉をつかんだのは、
大阪フィル桂冠指揮者の大植英次

2005年の『トリスタンとイゾルデ』だったが、
現地でも日本でも評価はケチョンケチョン。

ケチの総括をすれば、
”全体の融和を図るため個性を出せず”、かと言って、
”強い統率力を示したわけでもない”、と、

まあ、日本人そのものの評価をステレオタイプに言っているような気もするが、
結果的に、1年でサヨナラ組になった。

同時期、小山由美が日本人初の
5年連続バイロイト出演(「ワルキューレ」役)の
偉業を成し遂げているだけに、余計に比較される。



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