自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
当ブログにご訪問頂き、ありがとうございます。

このブログでは演奏会(ライブやコンサート)参加の履歴や
日常生活で思ったことについて、様々な視点で書いていきます。

どうぞよろしくお願いいたします。


2017年6月13日火曜日

慙愧に堪えない6月11日髙響 + 来る3月の高松ピアノコンクール

ブラボー屋はいいが、ブラボーおじさんと軽々しく呼称されたくない
芸術関係論文発表時の近藤昌紀である。


高松国際ピアノコンクールの事務局は
今年の直木賞・本屋大賞を総なめにした大作「蜂蜜と遠雷」を
(綿密に)お読みになったであろうか?



浜松ピアノコンクールに長期取材し、同コンクール丸出しのこの小説、
一次審査の段階から「歓声」「怒号」「スタンディング・オベイション」の連続である。


また、バレリーナで日本芸術院賞、文化功労者(ということは、実質人間国宝)
であらせられる森下洋子さんは、平成7年12月28日の四国新聞紙上で、

「拍手の中でかかる「ブラボー」は一般のお客様の感動のあらわれで、
どんどん掛けていただきたいものです。
見巧者の「ブラボー」は、踊りを一層エキサイティングにしてくれる演技の一種で、
芸術的ですらあります。」

と述べられておられる。


筆者のブラボーが「芸術的」とは言わないが
何か問題になる点があれば、どの点がそうであったのか、
具体的にご指摘いただきたい。


結局、事なかれ主義で、聴衆の感情の発露を殺してまでも、
粛々と事を進めたい高松コンクール事務局の思惑は、
地方ピアノコンクールの雄、浜松コンクール、それに次ぐ仙台コンクールに著しく見劣りする、
ギクシャクしたコンクールに内容を貶めてしまった。

このコンクールの発起人、亡ドコモ四国中澤正良社長の天上での慟哭が聞こえてくるようだ。




6月11日の高響演奏会。
チャイコフスキーのVコン、6番「悲愴」でも出た、楽章の間の拍手。


楽章の間に拍手する(ということは、実質的に曲想をぶち壊す)ド素人や、
曲の最後にある休止符の意味を理解しない、
「いきなりブラボー屋」対策の紙切れの一枚もプログラムに挟まない
田舎プロモーターの鈍感さよ。


こういう間違いを何ともなしに覚えたド素人聴衆は、これを当り前のことと誤認して、
次の演奏会でも楽章間の拍手を繰り返し、曲想ぶち壊しウィルスを拡大感染させる。


もっと言わせてもらうなら、
演奏中にのど飴の袋をいじって騒音を立てる「ガサガサおばさん」、
高松ピアノコンクールの最終選考か優勝者演奏でいた、口笛か指笛を吹く者。


あれはクラシック音楽の世界ではブーイングと同等に考えられていることを
知らない輩と思われるが、このへんはどうにかならないものか、プロモーターよ。



筆者、確かにブラボー屋としては異色だ。

相手の国籍、学んだ国、演奏曲目等により、
英・独・露・中・仏・西・韓・伊・アラビア語・ハンガリー語等
十数か国語を使い分ける。




これは国際交流としては多大な効果があり、結果として筆者に答礼する者、
アンコールの曲数を増やした奏者など、その効用は枚挙にいとまがない。

現在のような指定管理者でなく、
県直営であった頃の県民ホールはこの重要性を認識していた。






直営であったころは、正統派ブラボー屋を、正邪の分からない客に、
あれは 「礼儀なんだ」 と噛んで含めるように説明していたのに、

指定管理者になると、これも事なかれ主義に押し流され、
そのようなことをすると客が嫌悪して来なくなると、悪人に仕立て上げる



ただ、聞き分けられない言語は、確かに素人には騒音にしか聞こえない。
筆者のレベルになると、そういう悲しい宿命を背負っているのだ。


筆者がどのレベルの演奏会に行ってブラーボを出しているかは、
当ブログ中、「鑑賞履歴」をご覧いただきたい。






因みに筆者、
海外ではコベントガーデン、パリオペラ座(バスチーユに移る前)、
バイアン(バイエルン)、ウィーン、バイロイト、ブダペストの
各オペラハウスを制している。


ワールドスタンダードレベルで
ものが考えられることをおことわりしておく。






0 件のコメント:

コメントを投稿