自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
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2017年11月18日土曜日

「男性茶道軍団」とは変な言い方ではないか?

県内に「男性茶道軍団××」を称するグループがある。

この団体名の命名の裏には、茶道は女性がたしなむものとの認識が先に立ち、
男性でたしなむのは少数派数寄者的選民思想が頭にあるから、
このようなことを言い出すのであろうが、笑止。

茶道は基本的には「男性茶道軍団」などと言わなくとも、
男の世界発生のものである。

茶道の歴史的経緯を見れば、
このグループの茶道文化と歴史認識の咀嚼不十分さが垣間見える。


茶道を歴史的に見るとき、その根底にあるのは「無礼講」の発想だ。

茶道が隆盛したのは室町時代後期から安土桃山時代。

なぜ、こんな戦国動乱の世に茶道がヒットしたのかは、
無礼講の本来の意味を追いかけて行くと、非常に明快に理解できる。


室町時代の公式の場を支配したのは小笠原礼式である。

「面(おもて)を上げい」と殿に言われるまで、
カエルのごとく這いつくばって下を向いているのもこの礼式の影響だ。

要するに、下座にいる者は上座の者とは直接話ができない。
側近の家老とか小姓に向かって間接的に話す。

家老が、「今の話いかがいたしましょうか?」と殿に取り次ぐと、
「良きにせい」とか「ならぬ」とかの回答が出る。

これでは、例え面前であっても微妙なニュアンスは伝えられない。
機微な話はできにくい。

そこで開発されたのが、無礼講。

特に、戦勝祝いの酒席などでは、
身分の低い者でも大手柄を立てたりすると、
その日のスターにしてやりたい。

こういう場では一言、殿の「今夜は無礼講じゃ」ですべては解決する。

この一言で上下の差はなくなり、日頃は殿に直接お目通りできない者も、
このときばかりは殿に直接お酌ができる。

「おお、そうか。そちが先の戦で敵方の大将××と相まみえ、見事首をあげた〇〇か!」
で話が進む。

そういう意味では、現代の「無礼講」は本来の意味をかけ離れている

本気で無礼をしていい場という意味で使われているから、たまったものではない。


下の図は、江戸時代初期の絵画、
太平記絵巻の第一巻、『 後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事 』

 室町より少し前、鎌倉時代後期の、本来の無礼講のイメージ。




フジ・サンケイグループの故鹿内春雄議長が、
初めて視聴率三冠王を取ったときの社内祝賀会で、

「今夜は無礼講だ。備品を壊す以外、何をやってもいい。」
と参加者に宣したというが、

マスコミの覇者がこのニュアンスで無礼講を言っていいのかと、常識を疑いたくなる。


茶道もこの延長で、
茶道の精神の根底のあるのは「主」と「客」のみ。

身分は関係ない。
間に家老は入らない。

ゆえに茶の席では、上下の身分、
敵味方等あらゆるしがらみを取り払い、
対等に一対一で話ができる。

敵方の使者、いや内通者であっても密かに話ができる。


茶室は、その最適環境を提供できるよう、
極論すれば密談がしやすいよう、利休の建てた茶室などは極端に狭い。

このような場を活用するのは、当然のごとく武士。

戦国後期になると、武士と取引のある武器商人もこれに加わる。
堺出身の千利休、今井宗久などがそうだ。

したがって、茶道は基本的には「男性茶道軍団」などと言わなくとも、
男の世界発生のもの。現代の料亭政治に近い。


女性がこの世界に進出始めたのは、
明治以降の女子教育が叫ばれだした折、
行儀見習いの手段として、富裕層の通う女学校で教え始めたのがスタートで、

それまで、江戸時代などは武家をもてなす遊女が学んでいたくらいだから、
基本的に市井の女性の行儀見習いの範疇には入っていなかった。


ということで、
明治期以降に女性の礼儀見習いの手段として導入された茶道は、
洋装の普及で和装をすることの少なくなった呉服業界の恰好のカモにされ、

茶道=和装のイメージを定着させ、
茶道業界は呉服業界と裏で手を結び、相互に莫大な利益をもたらすようになった。

「男性茶道軍団」もその片棒を担ぎ、和装の男性写真を売り物にしている。

正体を知ると、茶道の崇高さが半減するのが何とも悲しい。



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