自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
当ブログにご訪問頂き、ありがとうございます。

このブログでは演奏会(ライブやコンサート)参加の履歴や
日常生活で思ったことについて、様々な視点で書いていきます。

どうぞよろしくお願いいたします。


2020年8月30日日曜日

マスク美人の浦島太子

最初に、
これは新コロ対策でマスクを着用し続けなければならない境遇にある、
三十路過ぎの女性に与ふる警告の書であることを、
お断わり申し上げておく。

 筆者が平日に日々顔を合わす女性の中で、ドラ娘と同世代の人が1人いる。
ドラ娘が昭和最後の9月生まれなら、この女性は平成最初の8月生まれ
ということで、ドラ娘とは1年足らずの同世代であり、
離れて暮らすドラ娘の行動様、容貌の変容などを伺い知るうえでは
格好の代替サンプルであり、注視していた。

といっても、昨年の今頃の筆者は“注視”などできる状態ではなかった。

左眼の白内障がどうしようもなく悪化し、
6月の人間ドックでは、視力検査器具をのぞいても、
ことごとく真っ白で何も見えない。

眼科で矯正しまくって0.02とかで、
左眼だけでものを見た場合、1m前にいる人の顔の存在は分かっても、
目鼻口は全く識別できない、のっぺらぼうに見える。

車を運転していて信号待ちのため停車したとき、
左眼だけで前の車のナンバーを見ても、さっぱり数字が読めない。
ナンバープレートの存在は分かるが、真っ白にしか見えない。
右眼を開けば、かろうじて数字は読めたかな、の状態だ。

事実上、あの頃の筆者は、
右眼の裸眼視力0.8だけを頼りに生きていたようなものだ。

追い討ちをかけるように、今年2月の誕生日を境に、
車の運転免許、小型船舶2級の海技免許の更新年が重なり、こ
のままではどちらも免許を取り上げられることは必定。

「白内障の手術ほど、人を幸せにする手術はありません」と
いう行き着けの漢方薬局の店主の言葉に背中を押され、
事前検査や諸手続きを経て、12月24日に手術を断行。

このための検査時、係りつけ医、手術医ともに、ハンで押した
ように「よく濁ってますねえ」と言う状態だったから、
それなりに重症だったのだろう。

しかし、漢方薬局店主の言葉に全くウソが無かったと言えるのは、
手術台に寝るまで、例によって医師・看護師の顔はろくに見えない。

左眼を開けて、手術医の
「青いランプの光が見えますか?それをじっと見ていて下さいね。」
で手術は開始されたらしいのだが、
その後も、痛くもかゆくも無いとはこのことだ。

10分も過ぎた頃だろうか、看護師の「もうすぐ終わりますからね」の声
と前後して、物を吸い取るような機械音。

多分、あれは破砕した水晶体を吸い
出していたのであろうと思われるが、看護師の
「はい。終わりました。上体を上げてください。手術台から降ります。」
の声とともに、周りを見渡すと、何と、総てが見える。

医師の顔も看護師の顔も。
いい歳をして、思わず「見える!見える!」を無意識に連発する筆者。

正味15分程度の手術で、片目だけの手術のため、
お泊りはなく、処方箋薬局で薬等をもらったら、
1時間後には防護メガネをかけて、とは言え、職場復帰。

暗澹たる人生を送ったその年の盆・正月の悲哀がクリスマスイブに一転した。
で、年が明けて執務を開始するや、ひとつのことに気が付いた。

業務用パソコンをにらんでいて、疲れ休めに目を上げると、
はるか向こうにくだんの三十路になり立ての彼女の顔が見える。

手術後しばらくしての検査では、両眼とも視力1.5という
驚異の若返りをした筆者の目だったから、
手術前には存在すら
見えたかどうか分からない彼女の目鼻立ちまでくっきりと見える。

女性職員は彼女の他にもいるが、視線の横にいて見えないか、
背中しか見え
ないかだったし、
彼女の前にいる男性職員は外出の多い業務だったから、やた
ら彼女の顔ばかり見える。

視力回復後の成果として、彼女のご尊顔を拝しつつ、
人生後半の懸案解決ができたことの有難味を痛感する日々となった。

で、彼女は2018年6月30日の本ブログ掲載した、
首から上は「3日で飽きる」美女か、「3日で慣れる」美女か。

ある部分の特徴を横に置いておけば、全体的雰囲気は、
故森本草介画伯描く、純和風美人の系統を引くと言っていい。

目鼻立ちが外人ほどに大げさなつくりでない、
しっとりとした雰囲気の顔立ちではあるのだが、問題(?)は鼻より下だ。

その特徴を端的に述べるなら、西洋史に首を突っ込んだことのある人なら、
その名を知らぬ者はないであろう、大航海時代後には「日の沈まない帝国」を
造り上げた、オーストリア及びスペインの両ハプスブルク家一族の身体的特徴
として、遺伝学の格好の材料ともされるその容姿を、なぜか日本人の彼女が持
っているのだ。
まあ、他の日本人でも、例えば故永六輔氏の口から下を思い出せばいい、
と言えば見当はつくであろうが。

この顔面的形質の特徴として、永六輔氏の話し方を思い出すと分かるが、
何か舌足らずなペチャペチャッとした話し方・発音になる。

これは、オーストリア女帝マリア・テレジアの娘にして、
まさにハプスブルク家の形質をそのまま引き継いだ、
フランス・ルイ王朝最後の皇后となったマリー・アントワネットの顔も
話し方もそうであったという記録が多々残っており、実は、筆者の視線
の先に在る彼女も、そういう顔と話し方というか、発音の気を持っている。

その話をもろに言わず、彼女に、
「もしかしたら、あんたの祖先、ハプスブルク家出身ちゃうか。
それとも、ハプスブルグ家の落し胤の末裔?」
と、彼女、その後、ハプスブルグ家一族の容姿の事を調べたのかどうか、
「あんまり訳の分からん事、聞かんとって!」
ときた。

目が良くなった恩恵はまだ続く。
少なくとも、この彼女が2018年6月30日ブログに書いた、
これは間違いなく「首から下美人」であることも分かった。

今年の2月、彼女、外出する業務があり、たまたま着ていた上着を脱いでいたの
だが、防寒対策でか、体に密着した黒いセーターを着ていた、
そのシルエットが、まさに森本草介画伯描くモデルそっくり。

出るところは、(外人女性的出過ぎをしない程度に)出て、
細くなるべきところは、細くなり過ぎない程度に細い。

森本画伯描くモデルさんは、隠れた部分も均整が取れているためか、上に何
を着ても、出るところは出、引っ込むところは引っ込んでいる。

そういう目で彼女を見ていると、上に何かを羽織っていても、
体を曲げたり、立ったり座ったりの所作の随所で、
これはボディーラインが不細工ではこうはならないと思えるシーンが散見される。

たまたま窓から差し込む西日を避けるため、遮蔽の紙を貼る必要が出たとき、
森本画伯の画集から、妖しい着衣ではない地味な着衣でも基礎となるボデ
ィーラインがしっかりしていると画家の目にもこう映る、
というページを何枚か拡大コピーして貼り、た
またま彼女が近くを通ったときなど、
「うわっ、あの絵そっくり」
と、まあ、筆者からすれば美女礼賛的言葉で(彼女の首から下を)賞賛した。


その彼女が、新コロの影響で職場にもマスク着用令が出され、
4月くらいからマスクを付け始めたから、もう数ヶ月、
彼女のハプスブルク家的特徴は隠され、「マスク美人」生活が続いている。

昼食は、彼女、弁当派のため、それを食すときとか、飲み物を飲むときは
マスクをはずすのだが、
ある程度離れているから別段変化は感じなかったのだが、つい最近、
マスクを外した彼女と間近で話すことがあって仰天。
 

わずか数ヶ月の間に彼女の口周り、見事にオバサン化していたのである。
マスクのせいなのか、
マスクをしているせいでお肌のお手入れがしにくくなっているのか、
ほうれい線が出ているとまでは言わないが、光と影の関係で、悪い意味でえらく
不要な彫りが深くなったようで、マスクをはずした途端、わずか数ヶ月の間に
浦島太郎化したというか、浦島太子になってしまった。

世の三十路を過ぎた女性に申し上げる。マスク美人化で、
目元からひたいあたりまで綺麗にしてれば事は済むと、油断されていないでしょうな。
というより、無理な対策はしなくてよろしい。

頻繁にマスクを取って、鼻から下の地肌をさらけ出し、男
性の目を慣らしておきましょう。でないと、このまま長期に
マスク生活を続けることにでもなれば、
ようやくマスクが取れたあかつきには、
「はて、どこのオバサン?」と言われかねませんぞ。

2020年7月26日日曜日

新コロに関して

発症の原因が、今まで年齢・加齢の問題とか既存疾病、
体質の差とか、
ウイルスを受ける側の人間の問題として捉えられて来たのが、
確か東大の学者が発見したのですが、

新コロウイルス自体が
人体の免疫機能を呼び出す能力を封殺する遺伝子を備えていたなんて、

人間の行為で言えば、
他人の家に押し入って、猿ぐつわでガードマンを呼べないようにした後、
自らは被害者に毒を飲ませたり、傷付けたりはしないが、
仲間を増やして家に有る財産を食い尽くし、
それによって、住人に食料を与えず干殺すようなもんです。

本当に狡猾で手強いです。

世間の人は、この免疫機能を呼び出す能力を封殺される、
すなわち、ガードマンを呼び出す機能を封殺され、
家の外では何が起こっているのか分からないままに、
強盗が家の中でドンチャン騒ぎしていることの恐ろしさが
分かっていないと思われます。

2020年7月25日土曜日

新コロウイルス自体を死滅させるるワクチン

新コロの症状緩和薬でなく、
新コロウイルス自体を死滅させるるワクチンとして、
コロナ状になった突起にひっついて、
人体細胞への侵入をできなくなするのが手っ取り早いワクチン製造法と書いた下り、
これは、もう治験段階に入った最も手早い新コロ撃退法です。

あのコロナ状の突起は、既に学術上「スパイクたんぱく質」と名付けられ、
この突起に取付くか、突起を使い物にならなくするかで、
各製薬会社はしのぎを削っています。


まさに、このスパイクたんぱく質攻撃薬として、

新型スパコン富岳が選んだのは、何と膵炎治療薬、日医工のフサン。

富岳の前例のないシミュレーション能力が選んだのもフサン。
他にも候補役は選ばれたそうですが、
既に治験にも使われている薬にとどめの一撃的ニュースです。
レムデシビルだのアビガンだのと騒いだのが、既に時代遅れになりつつあります。

2020年7月13日月曜日

土方 (ドカタ) 殺すにゃ刃物は要らぬ、三日新コロ降ればいい

表題の元歌はご存知「土方殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の三日も降ればいい」だ。
あまり使われなくなくなった例え文句だが、
非正規短期雇用労働者の悲哀を語る上で、これは現代に生きる名言だ。

新コロの降り具合となると、
神懸かったゼロを続ける岩手を除けば
長く鉄板の3人と5人を誇っていた鳥取と徳島が相次いで陥落。

香川も7月10日、4月20日以来81日ぶりに高松市内の70歳代男性1名感染を発表。

掲載の『赤死病の仮面※』を例に取るなら、
新コロを恐れる籠城派に対し、それでは生計が成り立たない。

 ※2020年4月18日付け当ブログ

「杜撰すぎます」という経済優先派の圧倒的圧力に負けて、
開門と同時にこの有様だ。

その後も、城内で我慢・忍従を強いられた経済優先派が、
食い扶持を求めて怒涛のように場外に出ようとするため、
もう一度閉門しようと思っても、事実上不可能な状態になってしまった、
というのが現状か。


 














「withコロナ」、「コロナとの共存」などという、
先走った考えにはついて行けない、というよりも、
年齢的なリスクが大きくなって、ついて行けない危険性の増した私だが、
実は、必ずしもそうでないという実績を私自身が作ってしまった。

昨年、左足内踵MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)感染※。
※2019年6月9日付け当ブログ参照されたい。

このMRSA、同年12月6日の四国新聞3面には、
薬剤耐性菌の“雄”として、2017年には年間4,224人が死亡と発表。

国内死亡者が未だ1,000人未満の新コロと比べると、余程質が悪い。

実際、皮膚科主治医には「最早打つ手はない」と宣告され、
昨年6月4日の済生会病院の人間ドックでは
「菌が全身に回らなくて本当に良かったですねえ」。
(後に、これが菌血病のことと分かるのだが。)

この頃を最悪とするなら、
昨年12月にはかなり傷がふさがり、今年1月からは杖無しで歩行。

今年4月20日には傷が完全閉塞し、
4月24日には皮膚科主治医のMRSA制圧宣言。

同6月2日の済生会病院人間ドックでは血液検査で
炎症反応がなくなったことを確認と、
皮膚科主治医も「一時はどうなることかと思った」症状が、
感染・発病後15か月、手術後13か月で、
少なくとも多剤耐性菌に完勝したことにはなる。

新コロ騒ぎがなければ、多剤耐性菌を自己免疫で克服した症例として
注目される存在となったらしく、
現在、後遺症として残った、山なりに角質化した皮膚がはがれて、
高さが低くなっていく経過を観察中の身だ。

この稀有な体質が新コロに通用するのか。

例え通用するとしても、新コロは現状では短期決戦だ。
自己免疫とは言え、一年余もかかったMRSAとの闘いと同等の動きで
新コロに立ち向かって、対処可能なのか。

やはり、未知数としか言いようがない。


それでは、新コロとはつまるところ、
どういう“生命体”なのか、
いや、“物質”なのか?

分からないようで、分かってきた現状を、
7月初めくらいまでに収拾したデータを元に整理してみよう。


まず、ウィルス自体は“生命体”と呼べるのかどうかも怪しい存在だ。

生命である限り、単細胞生物であっても、外部から物質を取り込んで、
それを分解することによりエネルギーを発生させ、
そのエネルギーを使って自己分裂を繰り返し、種を存続させてゆく。

ところが、ウィルスは例えば人体であれば、
その細胞に取り付いていないと生存できない、
完全な寄生虫的存在で、
寄生主が死ぬと、最終的にはウィルスも生きてゆけない。

すなわち、自己増殖能力が無いのに生命と言えるのか、からが“?”の存在だ。


しかし、新コロは生命でないとしても、
学者の表現を借りれば、
最初は悪い意味で「よくできた」から始まって、
次に「狡猾な」、最新では「手強い」ウィルスという評価になっている。

極論すれば、進化論からすれば、より進化したはずの脊椎動物である魚類よりも、
軟体動物で構造的には原始的なタコの方が知能が高いという例があるように、
分子構造としては低いレベルにあるウィルスが、構造的により複雑になって、
単細胞生物よりも出来がいいという存在になったと考えていいのだろう。
















では、新コロの何がそんなに狡猾で手強いのか。

1.普通、病原体が人体細胞に取り付いて危害を加え始めると、
細胞は警報物質であるインターフェロンを放出し、
免疫細胞などの防御機能を呼び寄せて退治を始めるのだが、
何と、新コロは細胞の持つ、
この警報物質放出機能を極端に弱める遺伝子を持っているというのだ。

警報物質が出るからこそ、人体は免疫の機能を高めるために発熱したり、
有害物質を外に排出しようと、咳をしたりするのだが、
警報物質が十分に放出されない。
これが、感染後数日間というスパンで発症しないという外見的特性となり、
その間細胞内に潜り込んで、
さんざんに増殖した新コロは、未だ発症していない保菌者から他者に感染する。

2.本来は外敵を破壊させる役割を果す免疫細胞が、
外敵である新コロの極端な増殖数に対応できず、
善悪の見境がつかなくなったが如く、人体細胞までも壊し始める。
これが症状の突然の悪化として表に出る。

3.余りの新コロの数に、本来なら病原体を体内に取り込んで分解、
無力化させる機能を果す、食細胞という免疫細胞が、
サイトカインストームとかいうパニック状態を起こし、
最後の手段として、食細胞自体が自爆し、
そこから出るDNAなどで病原体を絡め取るという特攻攻撃に出るのだが、
これが大量に起こると血流を阻害し、血栓を生じさせる。

これも急激な症状の悪化の原因になる。

朝には軽症だった患者が夕方には重篤化し、
人工呼吸が必要になるというのも、この症状が肺で起きるためだ。


4.2や3のような一種アレルギー的な症状に対しては、
アレルギーを緩和させるステロイド系の薬剤が有効ということが分かってきて、
症状緩和にオルベスコなどのステロイド剤が投入され始めた。

5.では、最終的に新コロを退治して完治できるのは、どういう仕組みが働くからか。
これは、いわゆる抗体という存在がモノを言う。
人体細胞に入り込もうとする新コロの、
それこそコロナのようになった多数の足に抗体が接合し、
細胞内に入れなくする。
細胞からの生活の糧を得ることが出来なくなった新コロは死滅し、
完治につながるというわけだ。


6.この抗体を作る能力は、人によって極端な差があり、
手っ取り早い治療法は、すでに完治して、
血液中に抗体の溢れている抗体製造能力の高い人の血清を、
患者に点滴注入することで画期的な効果を生むのだが、
この血清というやつ、なかなか一筋縄ではゆかない。

他人の身体への適合性、他の疾病の病原体が潜んでいて、
(例えば肝炎とかエイズとか、血液感染する病原菌の存在)、
この検査をする時間がない。
やるとすれば末期症状の患者にイチかバチかでやって、
大当たりをすることを期待するしかない、というのが現状だ。


7.新薬を作るのに手っ取り早いのは、
この抗体と同じ成分を作るか、あるいは予防薬としては、
この抗体を作りやすくする成分を注入してやればいいということになる。

ここまでを総合するなら、新コロの全容はほぼ見えてきた。
これから退治が始まるという、分水嶺に近づいている気はする。

三密の最たる環境を作る平面再生の実験及び香原システムの“人体実験”は、
上記開門状況が続き、

感染者が増える一方の現状においては、あなただけでなく、
私も絶対感染していませんと言えますか?

と自問することから始まり、予防薬のない現状においては、
絶対にうつしませんと言えますか?

で成り行きを見続けるしかない。

2020年6月16日火曜日

大いなる誤認-こんなの、意味の分からん小中学生に歌わせて、どうすんだよ !

新コロによる外出自粛が叫ばれていた5月の連休、
家の中で悶々と物心つい ての50年余りを振り返ったとき、
突然、幼少期に聞き覚えた歌曲、童謡が頭に 浮かんだことがあった。


その歌詞の、幼い頃に解していた意味と、
長じて、そ の正確な意味を知ったときの、
余りのギャップの大きさに愕然としたことがあ ることを思い出し、
己の浅はかさに思わず苦笑した。


しかし、これは読者諸氏もカミングアウトしていただきたい。

同じような間 違いを犯したまま、
もしかして今もそう信じ込んでいるのではないか、
と筆者 があなたの内心に潜り込んで行く問題だ。


逆に言うと、日本古謡と西洋音楽が 混然と融合した
明治期の文部省唱歌・歌曲の類を戦後世代に歌わせると、
こう いう誤認が起こるのでは・・・の集大成だ。


まず最初は2016年8月10日の当ブログ
筆者が「華のある曲」として大絶 賛した
武島羽衣作詞・瀧廉太郎作曲『花』、の3番の歌詞の頭、
 -錦織りなす 長堤に- を、

筆者、恐らく中学になるくらいまで
-錦織り成す 朝廷に- と誤認していた。
 
というのも、筆者幼少期の昭和40年頃からか、
NHK日曜夜8時の大河ドラ マが始まり、
折からの司馬良太郎ブームもあって、幕末ものが割と頻繁に放送 された。


その中で戊辰戦争の官軍としての薩長連合軍が、
幕府征討軍の象徴と して、
進軍歌『宮さん宮さん』を歌うシーンが何度か放送された。


その一節、  
-あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか-
が、調子の良いリズムとともに、
柔軟で何でも吸い込む幼少期の頭に刷り込ま れ、
「錦」と言えば「朝廷」と連想するようになってしまったのだ。


その結果として、「錦織り成す朝廷」とは
小学校低学年にしてはなかなかの迷 解釈だ。


それに続く節、すなわち  
-暮るればのぼるおぼろ月-
も  
-来るればのぼるおぼろ月-
と誤認し、


3番の歌詞を誤認のままで通すと  
 -錦織り成す朝廷に 来るればのぼるおぼろ月   
げに一刻も 千金の眺めを何に喩うべき-

と、これはこれで、
1番の「春のうららの隅田川」から始まる、
東京遷都間も ない明治朝廷の見事な讃歌になっている。 


2016年8月10日のブログでは、
もう1曲絶賛の
土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲『荒城の月 』。


その2番は、
 -秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて 
植うる剣に照りそいし・・・-

となるが、この歌詞のポイントは「植うる剣」に有る。

実際、籠城戦などでは 、刀の鞘など払う暇がない。

剥き出しの剣を、わら束にハリネズミのように「 植うる」、
すなわち、突き刺しておいて、
刃こぼれした刀を取り替えたという 史実を謳ったものであろうが、

 -鳴きゆく雁の数見せて-
とくれば、次の節を、  

-鵜売る剣に照りそいし-
 と解したのは、
水鳥なら“雁”の次は“鵜”と頭に浮かぶ田舎育ちの少年の性か。


我が幼少期の田舎では、
自家で家禽を絞め、解体するなんぞ当り前。

で、通 して見ると、我流解釈はこうなる。
-秋の陣営で霜の色が見える季節、
(糧秣調達で鳥の鵜を売る商人が)鳴き ゆく雁の数を見せて、
(その数を見ながら、カモの代わりに)鵜を売り、
 (そ れを解体するための)剣に照りそいし-
と、

まあ、これも間違いなりに、
ストーリーになっているとは言えるのかも。


なぜ???なぜ、この様な間違いが起こるのか?

音楽の教科書では、音符の下にひらがなで歌詞を添える。
小中学生のレベル では、漢詩にまがう文語調の歌詞など、
理解する余裕なし。


とにかく、楽譜ど おりに歌うので精一杯で、
意味を理解させるために、
教科書に歌詞だけも載せ ていたのかどうかも、
今では記憶が定かでない。
 
必定、平仮名での我流解釈が 、頭にすり込まれる訳だ。


林古渓作詞・成田為三作曲『浜辺の歌』は少しパターンが違う。 
 この初頭、
-あした浜辺をさまよえば-
の「あした」は「明日」なのか、「朝」なのか。

次のフレーズの「昔のことぞ忍ばるる」の続き具合と、
2番の頭が「ゆうべ」 となっているところを見ると、
まあ、「朝」の解釈が妥当なのだが、
小学生レ ベルで「朝」を「あした」と読ませ、
理解させるのは結構つらい。


このパターンを踏襲すれば、
「明日の朝」を「あしたのあした」と
言っても おかしくはないと思うのだが、
何と、外国語でも
これとそっくりのパターンが 有ると知ったのは地勢学的驚きだ。
 
ドイツ語がまさにそれ。
 
NHKのTVドイ ツ語講座で「明日の朝」を
どう言うかがまともな論議になったとき、

単純には
「Morgen(明日の意)Morgen(朝の意):モルゲン モルゲン」
になり、

まさに日本古来の
「あしたのあした」と瓜二つ。

ゲルマン民族東洋発生説を地 で見る気分だ。  

この2番の第1節がまた面倒なことを書いている。
 -ゆうべ浜辺をもとおれば-。

これは、筆者結構いい歳になるまで、
「浜辺をも 通れば」 と解していたのだが、
どうも音の切れが悪い。

で、辞書を「もとおる」で引いたら、あったのだ。
 「もとお・る【回る・廻る】」  

これを職場の同僚に見せて、
驚きと恥ずかしのカミングアウトをすると、
そ の同僚、 「私、『元 居れば』かと思いました。」 と、
これまた名解釈を下した。

どんどん行こう。

高野達之作詞・岡野貞一作曲『朧月夜』の1番第2フレー ズ。
 -みわたす やまのは かすみふかし-

こう、平仮名で書かれると
「見渡す山野は(ワ)」なのか
「見渡す山の端(ハ )」なのか、
あるいは「山野端」も有り得る、

で、いい歳になって一念発起。

原詩を調べたら「山の端」、
すなわち「ヤマノハ」で確定。


『あおげば尊し』は、
『蛍の光』と共に官製卒業ソングの定番。

 「あおげば」「わが師の恩」で一時、
リベラル派の先生が重圧的・高圧的と 騒ぎ出して、
筆者小学校低学年のときは、
6年生が卒業式の予行演習で歌って いたのを聞いた記憶があるが、
自分の卒業のときは歌ったのかな?だ。

長じて、この歌詞を熟読して仰天。

誤認のオンパレードだ。

正:「はや幾年 (イクトセ)」は「早行くとせ」、
正:「思えば いと疾し(イトトシ)」は 「思えば 愛とし」。

幼少期はもっとひどい。

「身を立て 名をあげ」は、
卒 業生が立って、名をあげる、

すなわち、
「名前を呼ばれたらお立ち下さい」の 世界。

そして校長先生が「やよ 励めよ」と祝辞をくれる。

もう、メチャクチ ャの解釈だ。

意味を完全に理解したときは、
とっくに学校を卒業していた。
 今でも、「別れめ」の「め」の意味がよく分からない。
「分かれ目」でいい のかな?


因みに、『蛍の光』
「いつしか年もすぎの戸を」の
「すぎ」を、

筆者、小 学校1年のときには
「過ぎ」と「杉」の掛け言葉であることを理解していた。

実際に杉の戸のある旧家に住んでいた者の特権であろう。  

幼いながらに、迷解釈が二転三転した例。
高野辰之作詞・岡野貞一作曲『故 郷(ふるさと)』の冒頭。

当初、字が読めだした頃、
「うさぎおいしかの山」=「兎追い 鹿の山」。
 小学校中学年になって、「兎美味し、かの山」  

だいたい兎なんて、ペットで飼うか、
戦前は軍事用手袋の毛皮や食肉用とし て
農家で飼育されていたことを祖母から聞いていたから、
山で兎を追うなんて 、いかに田舎育ちでも想像できなかった。

野ウサギを狩猟の対象とするのは、
野ウサギが美味しいから?の発想はあった。

長じて、フレンチのジビエ(野禽)料理で兎を食したとき、
この迷解釈も捨 てたものではないことを自認。

「ガスコーニュ産の
野 “ウサギ” の “美味し” いのを
ソテーしたもので・・・云々」

などとギャルソンから講釈を垂れられると、
フ ランスの地図が頭に浮かんで、「ああ、“かの山”か」となる。  


今でも分からないこと。
高野辰之作詞・岡野貞一作曲『紅葉(もみじ)』。

「秋の夕日に照る」のは「山」なのか、「山紅葉」なのか。
 と、暇に任せて調べて行くうち、
実際には歌詞が通常歌われるよりはるかに 数多いのだが、

内容が戦後日本には
そぐわぬものもある(ため、歌われていな いものもある)ことを発見。

その1 文部省唱歌『われは海の子』  7番 

いで大船を乗出して 我は拾わん海の富 
いで軍艦に乗組みて 我は 護らん海の国

その2 作詞不詳 スコットランド民謡『蛍の光』  4番

千島のおくも 沖縄も 
八州のうちの 守りなり 
至らんくにに い さおしく 
つとめよ わがせ つつがなく

2020年6月6日土曜日

目覚めよと呼ぶ声が聞こえ(BWV140:Wachet auf, ruft uns die Stimme(原題:独語))

タイトルであるこれは、
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲のカンタータのひとつで、
この中の第4曲中の 器楽演奏のメロディーなど、
人生で絶対1回は聴くであろうと思われる有名フレーズです。

同名 のゲームソフトもあるらしいですね。
音楽監修は、あのデーモン小暮がしているとかで、
このバ ッハのカンタータの表題をパクるあたり、彼の知性が感じられます。

で、我が芸術情報研究所も、
4月中旬の新コロによる全国緊急事態宣言の影響で被験者公募停 止中、
言わば休眠中ではありますが、
公募による実験に“目覚めよと呼ぶ声が聞こえ”る前から 、
研究所としての活動は雌伏中ながらも進めてまいりました。

その成果として、この度、平面再 生に係るブランドを立上げ、
電気通信機械器具で商標登録を申請しました。

その名も、 香原Fragrance Field 

で、その意味合いを
音響関係超有名ブランド「ドルビー」との対比で示すなら、
(もともと、芸 術情報研究所って何してるの?と聞かれたときの回答として
「日本の『ドルビー研究所』を目指 している」と
うそぶくつもりではいたんですが・・・)

〇芸術情報研究所 ⇔ ドルビー研究所

〇平面再生システム ⇔ ノイズリダクションシステム※1

〇香原Fragrance Fieldシステム ⇔ ドルビーノイズリダクションシステム※2

現在試作機が完成した前後バランサー(特許申請中)も、
香原システム又はフレイグラン スフィールドシステム(の一部)と表現できます。


「香原」の由来について一応申し上げておくと、

その1 春に咲くクチナシの白い花(はて、どこかで聞いたような)、
秋に咲くキンモクセイの 熟成したミカンのような色の花、
ともに高雅ではあるが強烈な芳香を発し、たとえ花が見えな くても、その香りがただようあたりは独特の結界が形成されたような気分になります。

まさに 香りの原っぱです。

わが平面再生システムの影響範囲内にいる人にも、
このような気分になっていただきたい。

そこにいるだけで、音の芳香に浸るような感覚に陥っていただきたい。
これが第一です。



その2 芸術情報研究所原分室の春先の朝は、近傍も含め、
全面の新緑と、植物の出す、いい意 味での独特の青臭さに包まれます。

この時期の新緑の風景は相当に鮮烈な印象を与えます。

落 ち込んでいても、これを見ると、
自然の持つ強烈な生への息吹をストレートに肌で感じ、
とに かく動こう、前に進もうという気にさせられます。
自然の持つ底力を感じるときです。
三木町 の山奥に住む、
かつての同僚が同じことを口にしたことがあって、
「うわっ、こいつ、分かっ てる!」と心中で叫んだことがあります。

春の香りに包まれた原の地、あるいは春の高原は、
それほどに強烈なインパクトを与えるのです。 


平面再生システムもかくありたい。
ごく自然に、高原でもなく、香源でもない、
香原の2字 が浮かんできました。



その3 香川の原、すなわち原分室の所在地、
香川県高松市牟礼町原は、平面再生システム発祥 の地。

香川県内では他に原という大字を持つ土地は無く、
香川の原で検索すると、高松市牟礼 町原しか出てきません。

いずれは、「こうげん」で変換すると「香原」が一番に出て、
検索す ると「芸術情報研究所の持つ音響ブランド」が
出る意気込みで行きたいですね。   

因みに、「芸術情報研究所」は知財に関する登録はしていませんが、
今のところ競合する団体 は無いようです。ネットの世界では、「芸術情報研究所」と言えば、まさに香川の原にある研 究団体で認知されているようです。 


その4 夢は広く大きく、香原は中国・韓国向け、
Fragrance Fieldは西欧向けブランド名と位 置付けました。

まあ、これも地勢学の成果でしょう。
因みに、中国語普通話読みでは香原はシ ャンユエンとなります。   


恐れ多くも、ブランド名を香原Fragrance Fieldなどと付けた限りは、
名に恥じぬ活動及び 成果を出して行かねばと、社会的責任すら感じます。
まさに、身の引き締まる思いです。

これか らも皆様、香原Fragrance Fieldシステムの未来に、
厚いご支援とご協力をお願い申し上げま す。



※1: Noise reduction System
※2: Dolby Noise reduction System
ドルビー研究所 は、カセットテープ全盛の1970年代、
再生時に発生する「シャーシャー」というテープヒス ノイズを減衰させる
ノイズリダクションシステムを開発し、大ヒット。
高級カセットデッキ には、このシステムを作動させるボタンが付いていました。
ただし、このシステムを作動さ せると
原音が歪むというデメリットもあったあたりは、
原音をわざと歪ませる平面再生シス テムと似ています。














2020年5月4日月曜日

ポーの呪縛:日米中新コロ治療薬三国志

4月18日付けで掲載した 「エドガー・アラン・ポーの恐るべき先見性」の
延長上にあるとしか思えない事態が発生した。

米食品医療品局(FDA)が
新コロの治療候補薬「レムデシビル」の 緊急使用を
5月1日付で許可。 

それを受けて米国の51番目の州日本は、
早々に必要な政令改正を持ち回り閣議で決定。

開発会社からの申請さえあれば
1週間程度で特例承認という異例の歓待ぶりだ。

もともとレムデシビルは、
180年も前にポーが“創作”した「赤死病」とそっくりの
エボラ出血熱の治療薬として、
米国の製薬会社ギリアド・サイエンシーズ社が開発したものだ。

劇症に対抗するには劇薬で、
と言わんばかりの 副作用もきつい薬で、
極論すれば、
死ななきゃいいんだろ、生きてさえいりゃいいんだろ、
的発想で開発された薬と言えなくもない。

素人ながらも筆者、
どうせ確固たる治療薬がないんなら、同じウィルス対抗薬、
一か八かでこれを投与するやつも出てくるだろうなと思っていたら、
出たのである。

この病気が中国から世界に飛散した比較的初期の頃、
タイの医師がHIV治療薬ではあるが、 これをやって劇効した例が発表され、
まあ、極論すれば
死ぬしかない運命にあった年配女性がピンピンに生き返り、
介助なしの自力で病院を出る姿が報道されたりしたから、注目はしていた。
 
では、日本政府ご推奨、
臨床試験も開始されたアビガンはどうなったのか。 

アビガンは元々富山化学工業が開発した
インフルエンザ治療薬である。 

この会社をフジフィルム(ホールディングス)が買収・子会社化し、
2014年に製造・販売承認が出たときには、
宣伝効果を見込んで「フジフィルム開発の」という枕詞で流布されたから、 
アビガンが新コロ対策治験薬として名指しされた頃から、
こりゃ、フジフィルム株暴騰だな、と下衆の勘ぐりをしたものだ。

時流は一時、アビガンに味方した。
新コロ発生の地、中国が先行して治療薬として承認したのだ。

しかし、それからがいけなかった。

これは多分に中国をライバル視、 というより敵視するアメリカの
マスコミの情報操作・歪曲も あるのではないかと思われるのだが、
アビガンは中国の臨床使用のデータ分析の結果、
思ったほどの劇的改善効果はなかったと報道され始めたのだ。

ドサクサで、客観的にまともなデータが取れなかった
中国側の事情もあるとは思うが、
新コロの母国で、
それなりに押さえ込みに成功した実績のある中国と、
アビガンの母国日本が蜜月になられてはたまらん、
というアメリカの腹の内が透けて見える。


アビガンからレムデシビルへの重心移動は、 
メリカでポーにより空想された病の類似病の退治はアメリカの薬で、 
と、筆者にはポーの呪縛に導かれて、 どこかで異常な引力が発生し、
成された業に思えてならない。 

そして、治療薬販売の権益もアメリカが独占したいという、
アメリカの薬剤帝国主義が、
それなりに効果があるかもしれない他国発の
薬を排除しかねないという危惧を感じる。















ところで、既存の薬で、
新 コロ治療薬として名が上がっていたのは、
筆者の知るところでは、
上記2薬の他に オルベスコとカレトラがある。

オルベスコは元々、喘息治療薬として開発されたもので、
肺の機能の極度の低下が重篤化を招く新コロとは、
肺つながりの縁だ。 一方のカレトラはHIVすなわちエイズ対策薬。

それがHIVウィルスを直接攻撃する薬なのか、
症状緩和薬なのかはよく知らないが、
どちらもアビガン、 それに続くレムデシビル台頭で
かすんでしまった感がある。

薬剤というのは、並行投与、すなわち組合せの妙というのもあり、
本来なら臨床試験で長い年月をかけてそれを試すものだが、
今回の場合、そんな悠長なことは言っていられない。 一品勝負に近い。

薬剤を通じた覇権争いが、 患者のこと、
あるいはその意思そっちのけで 展開されるとしたら、怖い。

 

2020年4月19日日曜日

新コロ

香川では、丸亀の40代女性が新たに感染判明。
感染経路を確認中との事。

こうやって一桁レベルの報道なら
怖さを実感できるのですが
東京の様に日々100人単位となると怖さの実感が湧きませんね。

みんなでかかれば怖くない的発想に
なりそうなのが怖いです。

【LIVE】大阪 道頓堀 ライブカメラ

2020年4月18日土曜日

エドガー・アラン・ポーの恐るべき先見性 -怪奇小説『赤死病の仮面(The Masque of the Red Death)』は現実のものとなった!-

アメリカのホラー小説家
エドガー・アラン・ポー(1809~1849)を
ご存知であろうか。

名 探偵明智小五郎と少年探偵団の生みの親、
江戸川乱歩という筆名は、
この人の名前をパクっ たというか、もじったものとして有名だ。

作品は怪奇小説といいながら、単純な筋立てで話が進んでいくか ら、
英コナン・ドイルのシャーロック・ホームズと共に、
少年少女文学全集の常連だろう。

この人の代表作のひとつに『赤死病の仮面』がある。

ウィキぺディアに
うまくダイジェス トしたのがあるから引用すると、
======================
ある国で「赤死病」という疫病が広まり、長い間人々を苦しめていた。

ひとたびその病にかかると、眩 暈が起こり、体中が痛み始め、
発症から三十分も経たないうちに体中から血が溢れ出して死に至る。

しかし国王プロスペローは、臣下の大半がこの病にかかって死ぬと、
残った臣下や友人を引き連れて城 砦の奥に立てこもり、
疫病が入り込まないよう厳重に通路を封じてしまった。

城外で病が猛威を 振るうのをよそに、
王は友人たちとともに饗宴にふけり、やがて5、6ヶ月もたつと
そこで仮面舞踏会を開く ことを思い立った。

舞踏会の会場となる部屋は奇妙なつくりをしており、
7つの部屋が続きの間として不規 則につながり、
またそれぞれの部屋はあるものは青、
あるものは緑という風に壁一面が一色に塗られ、
窓にはめ込まれたステンドグラスも同じ色をしていた。

ただ最も奥にある黒い部屋だけは例外で、
ここだ けは壁の色と違いステンドグラスは赤く、
その不気味な部屋にまで足を踏み入れようとするものはいな かった。

舞踏会は深夜まで続き、
黒い部屋に据えられた黒檀の時計が12時を知らせると、
人々はある奇妙な仮 装をした人物が
舞踏会に紛れ込んでいることに気がついた。

その人物は全身に死装束をまとい、
仮面は 死後硬直を模した不気味なものであり、
しかもあろうことか赤死病の症状を模して、
 仮面にも衣装にも赤 い斑点がいくつも付けられていた。

この仮装に怒り狂った王はこの謎の人物を追いたて、
黒い部屋まで 追い詰めると短剣を衝き立てようとするが、
振り返ったその人物と対峙した途端、絨毯に倒れこみ死んで しまう。

そして参会者たちが勇気を振起し、
その人物の仮装を剥ぎ取ってみると、
その下には何ら実体が 存在していなかった。

この瞬間、赤死病が場内に入り込んでいることが判明し、
参会者たちは一 人、また一人と赤死病にかかって倒れていった。
 ======================

 














この小説が発表された1842年当時は、
赤死病 (Red Death)という病気はない。
いわば架 空の伝染病で、ペスト、別名黒死病(Black Death)を
もじって命名したものと思われる。

1970年代に初めて発見され、
その後散発的にアフリカで大流行している
エボラ出血熱の症 状とそっくりなのが何ともすごい。

エボラに感染すると、口鼻、
一説には体の上から下 まで穴という穴から
出血して死に至るというから、赤死病そのものだ。

ポー本人は、ホラー 小説的に、
讃岐流に言えば“むつごい”表現で書いたのであろうが、
現実がそれを後追いし ている。

ただ、エボラの場合、潜伏期間が極端に短いのと、
致死率が50%を大幅に上回る。

患者が周囲に病原菌を撒き散らし、伝染させる前に死んでしまうため、
世界的流行にま では至っていない。

問題は新コロだ。
「疫病が入り込まないよう厳重に通路を封じてしまった。」
というのは 、これはまさに、中国の武漢あたりスタートのやり方である。

だが、潜伏期間が余りに長いのと、
健 常者というよりも健丈者にも感染するが、
発病しない人もいるという特性のため、保菌者が 病原体を撒き散らす。

その結果、病が場内に入り込んでいることが判明したときは、
時すで に遅し、病原体はすでに撒き散らされ、
参会者たちは一人、また一人と病にかかって倒れて いった、となる訳だ。

いやはや、すさまじい先見性である。
いや、予言者と言ってもいいだ ろう。


ところで、この人の代表作のように言われているのが
「黒猫(The Black Cat)」だ。

この 作品を幼い頃に初めて読んだときから、
いい歳の大人になるまで抱いていた疑問。

殺した ヨメさんの死体を隠すために壁に塗り込めるのは分かるとして、
憎悪する黒猫をそのヨメさ んの死体の頭上に生きたまま塗り込めるというのは、
殺し方としてはどうも腑に落ちなかっ た。

殺してから埋め込むのならわかるのだが、
生きたまま埋め込むのが動物虐待的で、
動物 愛護精神にうるさい西欧式思考からすると衝撃が大きいからか。
ならもっと酷い殺し方もあ ろうに・・・で、30年が過ぎた。

その行動の裏に、
余り大きい声で言えない英国流の慣習が潜んでいることが判明した。

2000年平成12年夏から約1年間、
朝日新聞に連載された村田喜代子氏(この人本人に仕事 で会ったことがあり、そ
の縁で連載は一通り読んだ。)の小説『人が見たら蛙に化(な)れ』を 読んだ結果だ。

この小説の終盤で、
文化財の盗掘屋であったか贓物故買い屋の骨董商であっ たかが、
英国ロンドン塔を訪ねる場面があったのだが、
ここで、日本には無い、余り気味の 良くない慣習が語られた。

曰く、日本や中国なら人柱を立てるように、
あちらでは新築の家 の壁に生きた猫を塗りこめる。
それも黒猫がいい、という何とも不気味な慣習があるという のだ。

これで、積年の謎が解けた。

英国流を受継ぐアメリカの東岸ボストンに生まれ、ボ
ルチモ アで没したポーの周辺には、
こうした英国流慣習が、良いことも悪いことも渦巻いていたの だろう。

その悪い慣習の一端を小説に潜り込ませたのであろうが、
この慣習を知るか知らな いか、
で小説の不気味さというよりも有難味が半減してしまう。

翻訳者は注釈を付けてでも 、
この慣習を読者に教え込むべきなのだ。

それに依って、なぜ黒猫が生きたまま塗り込めら れたかがはっきりする。

小説の主人公は、新築家屋における英国流慣習を淡々と実現すると ともに、
妻を死に至らしめた、いさかいの原因たる黒猫を目の前から消し去った。
言 ってみれば一石二鳥である。

まこと、文化にまつわる慣習というのは奥深いものだ。
良くも 悪くも。
こういうことを明るみに出していくのも、地勢学の真骨頂だろう。

こうなってくると、徳島の感染者数3名固定は見事としか言いようがありません。

こういう状況ではマスコミは県内の感染に関する情報優先で、
他県の感染状況は二の次
県境に情報の壁ができたようなもんです。

全国の感染状況なんて、わざわざサイトを見ないと分からないんですから。
で、1名固定の鳥取と3名固定の徳島なんて、もう神業ですね。

徳島なんて、四国ではトップで感染者が出たのに、です。

香川では、40代男性家族。
一度陰性判定を受けながら発病。
もう、何を信用したらええんや、です。

一方、東かがわ市では感染経路の分からない50代男性が発病。
要するに東讃地域は、健丈な保菌者が在住する可能性の高い
汚染地域になったようなもんです。

実験はしばらく中止。

まあ、平面再生システムの開発は、新コロを凌駕する重要性がある。
だから感染の可能性を押して研究 と言えは注目する人は注目するかも、ですが。

2020年4月8日水曜日

NHK高松放送局にいた鈴木桂一郎さんというアナウンサーからDMが届きました

昭和50年代前半にNHK高松放送局にいた
鈴木桂一郎さんというアナウンサーからDMが来て、
かつて局でアルバイトしたことのある私に、
当時の音楽シーンはこれ、のディスコサウンドのリクエストとコメント、
高松の思い出絡みで瀬戸大橋のことを書いて欲しいと依頼があり、
そこそこの量の雑文を送りました。

今朝9時5分から11時50分までNHK・AM第一です。
緊急事態宣言全国化で番組は流動化するとは思いますが、
私は公休で病院通いもない日なので、
一応、ラジオにかじり付いていようと思います。

原稿は手元にあるので、どこが読まれたかは、
注意して聞いていれば、
ある程度、放送された内容は特定できると思われはします。

2020年2月28日金曜日

国歌は国家なり

 以下は中国(中華人民共和国)国歌である。
ただし、原曲は簡体字で書かれてあるが、日本語漢字に翻案してある。

『起来!不願做奴隷的人們!
 把我們的血肉、築成我們新的長城!
 中華民族到了最危険的時候、
 毎個人被迫着発出最後的吼声。
 起来!起来!起来!
 我們万衆一心、
 冒着敵陣的炮火、前身!
 冒着敵人的炮火、前進!
 前進!前進!進!』


この3行目をご覧いただきたい。
抜き出して分かり易いように分かち書きすると、
「中華民族 到了 最危険的時候、」
原語では、
「チュウカミンズ タオラ ツイウェイシャンダシホウ」
と歌われるが、これはもう、今の中国そのものではないか!!!

 2020年2月24日(月)四国新聞2面
リード
「習氏『建国以来で最も困難な事件』」
本文
「・・・習近平国家主席は23日に開いた会議で
「建国以来、最も困難な公衆衛生の事件だ」
との見解を示し、対応を強化するよう指示した。・・・」

国歌の後追いで国家が動いている。
 ついでに言うなら、その上の2行目、
「把我們的血肉、築成我們新的長城!」
も、今の世相からするとギョッとさせられる。


「把」は日本語には無い漢字で、「~しようではないか!」くらいの意味だ。
日本語に訳せば、
「我らの血肉で、我らの新たな長城を築こうではないか!」

これは、万里の長城築城の際、酷使に倒れた労働者や人柱にされた人々が、
あたかも土木資材の如く長城の内部に埋められた

という史実を思い出させられる内容だが、
今のご時世、新型肺炎に倒れて亡くなった多くの患者の遺体は

どうしているんだろうと思わず勘ぐってしまう。

「国歌は国家なり」という新たな格言ができそうだ。

 では、我らが日本国の国歌はどうか。
『千代に八千代に、
さざれ石の(地殻変動で地中で押し固められて)巌となりて、
(それが地表に出てきて風化されて)苔のむすまで』
と、
短くも長々しい意味を含んだ歌詞だ。

地学・地球物理学的にも合っていて、実に科学的な含蓄が有る。
これだけネバく、しぶとく日本国家は存続し続けるというのなら
そこに生きる我々としては、
新型肺炎に打ち勝って、

悠久の時を刻むことができるであろうというおまじないの文句として、
今こそ国民一丸となって歌おうではないか




   

2020年2月22日土曜日

芸術情報研究所の課外活動

芸術情報研究所・近藤です。
明日23日13:30
県民ホール小ホール集合現地実験の最終留意
事項です。

1 駐車場
ホール北側の県営駐車場は料金が高い上に、
早めに行かないと混み合います。(区画数は十分に有りますが。)
ホール東側に何箇所か500円で一日置き放題のチケットパークが有ります。
早めに行って、こちらを狙う方がお得です。

2 演奏時間
前半のドボルザーク・チェロ協奏曲は約40分、
後半のブルックナー交響曲4番は皆様ご存知のとおり1時間超です。
そこで、
 ① 前半、後半ともに中途退場はできません。
必ず、トイレには行っておいて下さい。
 ② どちらの曲も楽章の間の切れ目がありますが、
このときは曲は終わっていないので拍手はしないのが原則です。
で、このときにぜひお願いしたいのは
  Ⅰ せきをするならこのときに
  Ⅱ のどあめを口に入れるならこのときに

3 咳の問題
これは必ずと言っていいほど年配女性なんですが、咳が出そうになると曲の途中
でもかまわずビニールのガサガサ音を立ててのど飴を口に入れる人がいます。
この音は、マイク・PAを使わないナマ演奏が原則のクラシックでは
人が思っているよりも相当に周囲にはうるさいです。まさに迷惑行為です。

それよりは、遠慮がちにでもせきをする方がましです。
現に、クラシックのライブ録音では曲の途中に咳が入っているのはいくらでもあります。気にすることはありません。

また、クラシックのコンサートが初めての人は、ハンで押したように、
咳がうるさく聞こえたと言いますが、自然現象と思って慣れればこれは
何ともありません。それよりも楽章の間の拍手とか、のど飴のガサガサ音、
最悪(と言うより、あってはならないことの最たるものですが)幼児の叫び声のほうが
はるかにうるさいです。
これがマイク・PAを使うポピュラー曲との大きな違いでもあります。

4 居眠りは問題なしですが、いびきはご勘弁を、です。
私でもこれは自分自身が結構こわい。自分では分かりませんから。
もしいびきをかき出したら、起こして下さい。

次に実験としてこれに注意して視聴し欲しいという点を列挙しておきます。
詳細は明日会場で申し上げます。

5 コントラバス(ウッドベース)の音
コントラバスを数本並べるオーケストラのナマの低音は、
わが自慢のシステムでも再生し難いものがあります。

6 第一ヴァイオリンが優劣を分ける。
ボウイング(弓使い)の統一性、有って欲しくないことですが
チューニングが揃っていないときのネコの叫びを聴くような不快感。
視覚的にも影響が大きいパートです。

7 ティンパニの音
これは、奏法、音質によっては曲のイメージが、がらりと変わります。


留意事項
曲が(完全に、指揮者が腕を下ろして以降)終わって高揚したときに出す
ブラボーのことを知っておいて下さい。
ブラボーはもともとイタリア語で「ブラーボ」と発音するのが正解ですが、
フランス人は「ブラボー」と発音するのを何度か経験しました。

これはどちらが正解とも言えないのですが、共通する留意点として、
男性単独に向ける場合は、「ブラーボ」
女性単独に向ける場合は、「ブラーバ」
これは、マリオとマリアの違いと思えば覚えやすいです。

複数の場合がややこしい。
男性が1人でもいる場合の複数に向けては「ブラービ」
女性ばかりの複数に向けては「ブラーベ」

で、今回の前半ドボルザークのチェロ協奏曲の場合
チェロのソリスト宮田大に対してする場合は「ブラーボ」
指揮者は女性ですから「ブラーバ」
オーケストラ又は出演者全員に対して出す場合は「ブラービ」となります。

通がこれをどう使い分けて出すかは結構面白い見ものですね。

さらに最上級のワザとして、
アンコールを求める場合
「アンコール」と叫ぶよりも
「ビス ビス(bis bis)」
と叫ぶのが王道らしいです。

これはフランス語の辞書にも載っていました。
前半のチェロのソリスト宮田大は、これに応えて興が乗れば1曲くらいはアンコール
をやる可能性大です。これをやらせるのも通のワザでしょうね。

以上、お読みいただきありがとうございました。
当日も、チケット配布時又は着席後口頭で留意事項は申し上げます。