自己紹介


はじめまして。近藤紀文と申します。
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2021年6月6日日曜日

余はいかにしてワグネリアンとなりしか ー運命の女神ノルンのつむぐ綱は未だ切れず、筆者とつながっている一 その4

・さて、前置きが長くなったが、
本稿の標題、「余はいかにしてワグネリアンとなりしか」 に戻ろう。


だいたい、この標題自体が「文化ペテン師」の面目躍如だ。

内村鑑三の名著「余は如何にして基督 教徒となりし乎」を
もったいなくもパロディー化させていただいた。

しかし、これがあながち出鱈目 なパロディーでないことは、
自信を持って言える。

ヴァーグナーの作品には、
『タンホイザー』や「パ ルジファル』など、キリスト教、
それもカトリックの思想や伝説に根ざした歌劇・楽劇があるが、
こ れらの作品を聴いているならば、
序曲の
段階で、もうすでに法悦の境地に入ってしまう魔力がある。

中世キリスト教の聖人アウグスティスス(354~430)は、
著書『告白』の中でこう述べる。

「(前略)きよらかな声とよく整った調子でうたわれるのを聞くと、
歌そのものよりもむしろうたわ れている内容に感動させられていることを考え、
この(中略)大きな効用をあらためて認識するので す。

このようにして私は、それがひきこむ快楽への危険と、
にもかかわらずそれが有している救済的効 果の経験との間を動揺しています。

(中略)
それにしても、うたわれている内容よりも歌そのものによって
心動かされるようなことがあるとし たら、
私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。」
(山田品訳『世界の名著』14、 中央公論社)

まことにストイックなご発言だが、このお言葉どおりに考えるなら、
約1500年後のドイツに 出現するヴァーグナーの歌劇・楽劇を予言した、
としか言いようのない名言である。

ワグネリアンの 大半は
「うたわれている内容よりも歌そのものによって心動かされ」、
結果、それを聞く者は「罰を うけるに値する罪を犯している」。

そして、そのようなバチ当たりな世界へ
引きずり込むような名曲 を世に送り出したヴァーグナーは、
魔界の帝王若しくは悪魔の申し子としか言いようがない。

神よ。 このような魔人、若しくはヴェーヌス
(=ヴィーナス:詳細はヴァーグナーの
歌劇『タンホイザー』 の第1幕冒頭部をご覧あれ。)
のとりことなった、哀れなワグネリアンたちを許したまえ。
(念のため に言っておくが、我が家は先祖代々、真言宗大覚寺派の門徒である。)


・筆者のヴァーグナー受容
筆者が、作曲者は知らないままに
初めてヴァーグナーの作品を耳にしたのは、中学生のときであっ た。

当事の音楽の先生が、
給食の準備開始の合図の音楽として、
歌劇『タンホイザー』」第2幕第4場の、
歌合戦の場での入場行進曲を放送したのだ。

幼児体験は一生身に付きまとうと言うが、
筆者の 場合、ヴァーグナー受容がまさにそれだった。

『タンホイザー』云々など知らぬままに、
「えらい、か っこええ行進曲やな」と心にしまい込んでおいたのだが、
あるとき、偶然聰いたNHKラジオ第一の 音楽放送で、
この曲がヴァーグナーのそれであることを知る。

第2の出会いはそれから間もなくのことであった。
当事、家庭に爆発的に普及し始めた小型カセッ トレコ一ダー。

今から考えると、テープ、録音機材ともに性能は悪く、
静かな音などを録音すると、 音を少しでも大きくしようものなら
「ザーザー」という雨が降るような音、
いわゆる「テープヒスノ イズ」に泣加された、あの1970年前後の代物だ。

今のオーディオ機器では考えもつかない劣悪さ。
それでも、オープンリールテープのバカでかい図体と、
テープの取り扱いの面倒さに比べれば、雲泥 の差があった。

幼い子供でも、
好みの音を自由に録音できる有難さを初めて知ったのが、
筆者の世代 であろう。

<続く>


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